純愛というスタンドアローンなエゴイズムからの脱却
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純愛か狂気か

純愛という言葉には美しい響きがある。小説のコンセプトとしても純愛ものはひとつのジャンルと言ってもいいだろう。病気や身分の違い,戦争などで純愛が引き裂かれるストーリーは必ず涙を誘う。中でもプラトニックな恋愛は崇高なものとしてあがめられやすい。ある意味退廃主義の真逆の価値観かも知れない。

小説のコンセプトとしては素晴らしい純愛も現代の世界では狂気となりやすい。特にストーカー犯罪はあとを絶たないばかりか,殺人という凶悪化が進んでいる。

純愛が危険なのは一方的な愛情を肯定してしまうことだろう。「こんなにも相手を愛している自分」が自分自身のアイデンティになる。自分はこんなにも相手を好きなのに,指一本触れないで愛しているのに。そういう気持ち増幅していった時に相手の恋愛が裏切り行為として許せなくなっていくということは多い。ようするに純愛はエゴイズムなのだ。

自分の中の偶像を愛するということ

男性に多いのが自分の中にもう一人の彼女ができることだ。その彼女は実態と離れて成長していく。自分の中の偶像になっていくのだ。例えば初期の恋愛の段階で「この子はこういう女性に違いない」という像を生み出す。後はその偶像の方がどんどん成長し,本物の彼女が違う行動をすると「君はそういう女性では無い」と本物の方を認めたくないという行動にでる。男性の恋愛はとてもロマンチストであり,偶像化しゃすい。しかしそれもスタンドアローンなエゴイズムなのだ。男尊女卑型の社会であればそれでもよいかも知れないがもはや繋がってしまったネットワーク社会がそれを許すことは無い。

混沌と多様性の時代だからの退廃主義

純愛というスタンドアローンなエゴイズムは葬り去る時が来ている。LGBTを認めネットワーク型の多様な愛の形を許す必要がある時代だ。今必要な恋愛の形はコミュニケーションだ。相手の心と肉体を理解し,パートナーとして相手に自分が与えられるものをよく考えることだろう。それは癒しの時間かも知れないし,至福の食事かも知れないし,官能のエクスタシーなのかも知れない。まずコミュニケーションありきだ。一方的な妄想は偶像崇拝の危険性を伴う。最小限のコミュニケーションや最小限の関係性こそが崇高の恋愛という考え方は社会における雄と雌はとにかくてっとり早くマッチングしてしまう方がよいという生物の効率性からすると良いのかも知れないが,個人の幸福の最大化からすればよいことは何も無い。

男性も女性も混沌とした多様性の時代だからこそたくさんのコミュニケーションとたくさんの関係性を持つことが選択肢を増やすこと繋がることだけは間違い無い。その結果自分が恋愛においてどんな関係性を持つことにするか判断することがこれからの社会において重要な恋愛モデルだろう。

たくさんのコミュニケーションを「汚れる」と表現すること自体が男尊女卑型の社会の遺物であることに早く気づくべきであろう。二人だけの崇高の恋愛を選んだカップルは結果論としての選択となる。そのプロセスにおいてはポリアモリーな時期があっても良いのだ。なので純愛が残ったとしてもそれは結果論として残る時代になるのだ。

退廃的ロックスターDavid Bowieに捧ぐ
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ロックが格好良かった時代

David Bowieがこの世を去った。まだロックが破壊とイノベーションでかっこよかった退廃的な時代を象徴する人がまた一人去ってしまった。
そして何よりもボウイはビジュアル的に本当に美しくかっこいいのだ。その中性的なマスクと声がかもしだすオーラは間違い無く真のロックスターだ。

初期のグラムロック時代を代表する曲としてはこのスターマン。残念ながらさすがにリアルタイムでは無く,この後に紹介する曲でデビットボウイを知ってからさかのぼって知った曲。当時は奇抜な試行錯誤かと思っていたけど,今から思えばミュージックビデオで映像が全盛になるはるか前から映像と音楽の両面の表現で勝負していたわけで映像時代を予見していた挑戦。退廃的でかっこいい。

David Bowie - Starman (1972) HD 0815007

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やっぱりブリティッシュロック

80年代になるとMTV全盛時代。イギリスのミュージシャンもアメリカチャートを意識して売れ筋の曲とPVを乱発する時代。デビットボウイもナイル・ロジャースプロデュースでダンサブルなアルバム「レッツダンス」を出して大ヒットを飛ばす。それでも,デビットボウイはやはりブリティッシュロックとしてのかっこよさを常にかもしだしていた。曲は超売れ筋の80年代ロックぽいこのモダンラブだが歌詞は強烈。

まさにこの退廃主義宣言でもよく警告している「米国キリスト教の教える清き恋愛」というスタイルを完全否定している。つまり恋愛というものもその時の政治や支配者などによっていくらでも都合よく使われてしまうということだ。

David Bowie - Modern Love

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Love & Peace

不倫カップルの愛しあうキスからベルリンの壁を壊す象徴の曲も書き上げていた。やっぱりロックはLove & Peaceなんだよと格好良く歌う。

David Bowie - Heroes (live)

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現代の日本人向けのメッセージソングとしてはこれをおいて他にないだろう。
クイーンとの共作で出だしとかクイーンぽいけど,中盤のメロディラインはやはりデビットボウイの曲なんだと思わせる。真面目に生きるプレッシャーのもと驚異的な自殺率を叩き出す日本人にプレッシャー感じてちゃだめ愛だよ愛と叫ぶ。

ロックスターは酒か薬か交通事故かHIVで早死にすると言われていたのも昔。今生きているロックスターは摂生して長生きだ。そんな中69歳の死はやはり若すぎる。格好良すぎたロックスターは自分の作品の通り,宇宙飛行士になってスターマンになってしまった。R.I.P.

Queen & David Bowie - Under Pressure (Classic Queen Mix)

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ベッキーと矢口真里は誰から叩かれるのか
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CMの差し替えにまで右往左往するスポンサー達

新年早々ベッキーの不倫騒動が騒がしい。そもそも不倫で民事裁判を訴えることができるのは
この場合不倫した男の妻だけの権利である。妻だけがいくら激おこしても許される存在であるが,
逆にそれ以外の人にとっては他人事だ。

しかし,それでもベッキーが謝罪しなければ行けないのは芸能人の中でもCM女王として君臨していたため,CMのスポンサーや出演しているバラエティ番組のスポンサー達への配慮が重要になるからである。実際スポンサー各社がこぞってCMの差し替えを始めているという報道もある。

では何故そこまで配慮しなければ行けないのか?それはスポンサーの商品を買う顧客層がベッキーの行為に対して許せない!と激怒し,場合によってはテレビ局やスポンサーの広報部に抗議の電話をしてくるからである。ここのところCMへのクレームも増えており,許せないと感じるクレーム攻撃にスポンサー側も敏感である。

マグマのように蓄積された自由奔放を許せないエネルギー

何故主婦を中心とした女性層はこうしたベッキーや矢口真理のような不倫に敏感なのだろうか。
答えは単純である。つまり自分達ができないような自由奔放な恋愛を楽しむ女性を許せないからである。

日本女性はとても真面目に生きてきた人が多い。それ事態は悪いことでは無い。しかし,恋愛もしないままとりえあず結婚して子供を産み,仕事を自己実現にすることもできず,配偶者控除の範囲でパートでもし,セックスは子供ができてからしなくなり,○○君のお母さんと呼ばれることの方が多くなり,気がつくと女としての幸せな人生送ってきたのかと考えると絶望的になるから考えないようにしているというような女性はとても多い。

しかも現代の日本は母親になると周囲からの母親として当然でしょとあらゆる行動にプレッシャーがかかる。そんなストレスは世界一SEXをするギリシャ人なら解放されるかも知れないが,セックスレスになった彼女達はマグマ貯まりのように貯めていくしかない。

つまり多くの日本女性は真面目に生きて,子育てに苦労して,恋愛やSEXの喜びなど経験しないままおばさんという存在になった女性が非常に多い。そんな人達に自由奔放に恋愛やSEXをしているような人は許せない対象になる。ましてやテレビ画面で日常的に見ているタレントなどの場合はさらに過激な攻撃になる。プロスケーターのミキティなどはスケートという才能も持ち,子供も持ち,自由に恋愛をしているという状況に猛烈な嫉妬が渦巻くのだ。

急増する未婚処女はさらなる過激な行動も

そしてそんな状況に追い打ちをかけるのがそうしたおばさんに加えて,急増中の未婚のまま中年になったり,処女のまま年を重ねてしまっているような新しい嫉妬予備群である。彼女達はもはや結婚や妊娠をしている女性ですら許せない。妊婦がお腹にひじうちされるような事件も増えており,妊婦とわからないように妊婦バッチをはずす妊婦も増えているようだ。最近はそうした友人がいる女性は気を遣って年賀状をわざわざ子供の写真とか家族写真が入っていないバージョンを用意するというようなことまででてきている。それぐらいジェラシーのエネルギーは恐ろしいのだ。

今からでも遅くは無い。退廃淑女になろう!

解決策は難しいことでは無い。結婚とか子育てとか旧来の日本の女性の幸せの価値観を壊していくことだ。そのためにはもっと恋愛を普通に楽しみ,事実婚を増やし,ポリアモリーも増やして行く。もっと女性達がSEXを楽しみ,中年になっていたとしても女性としての自分に自信を持ち,女を楽しめば良いだけだ。

ただ,そしてそれを阻むのは母親だろう。以前にコラムでも取り上げたように多くの母親は不幸なことに女性として人生楽しめなかった人達だ。彼女達が自分の娘にも同じ境遇を味わわせることになるのだ。退廃紳士は女性達をこの呪縛から救うことが使命だ。18歳を過ぎた女性達の恋愛とSEXはもっと自由であるべきだ。これ以上不幸な女性を増やしては行けない。芸能人にジェラシー燃やすような無駄なエネルギー注ぐよりは,未来に向かって向上心をもった人生を歩むべき女性達を今こそ増やそうではないか。

【謹賀新年】退廃と寛容の社会へ
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不寛容社会

新しい年が始まった。昨年を振り返ると世界的に「不寛容社会」が広まっていることが懸念された一年だった。

「誰かが不快に思うならその表現は認めない」

思えば昨年1月始めにパリで起こった新聞社襲撃事件でスタートした昨年。イスラム教からしたら認められない表現が悲劇の原因だった。宗教は長い人類の歴史で常に戦争の原因になってきた。しかし,個人が大きなパワーを持ってしまった現代。国と国との戦いから個人中心のテロ組織が不快に思ったらテロができてしまう状況が生まれた。そして相手を認めない暴力が年末のパリを血の海にした。

正しいことをしている意識の危険さ

日本は平和だ。少なくともパリのようなテロはおきない。そう感じている人も多いかも知れない。しかし,日本にも不寛容社会は確実に訪れている。それは一見,セクハラだ!差別だ!という正義を振りかざして行われる。

昨年は萌えキャラのポスターなどにすぐクレームがついてポスターのデザインが変更される事態などが相次いだ。うどんかるたの「色白太め」という表現すらクレームがついた。確かにこれらを見て嫌な気持ちになる人はゼロでは無いだろう。しかし,個人の感情全てを配慮していたら社会は成り立たない。支持する人と支持しない人で常に議論をしていくことが民主主義だ。

○○ハラスメントはどんどん生まれている。そしてそれは弱者を助けるためという名の下に正義を振りかざす。しかし,自分だけが正しいから相手の表現を消滅させることはテロリスト達が暴力で口を塞いでいることとやっていることは変わらない。原発反対も集団的自衛権反対を唱えるのもおおいに結構だが,相手を認めないというスタンスは危険だ。ファシズムはそれを集団心理に押し上げて生まれたことを20世紀の教訓として絶対忘れては行けない。

退廃的に,寛容的に

例え不快に思う人がいたとしても,直接的に相手を傷つけない表現ならどんどん行うべきだ。セクシャリティや官能の世界はセクハラや公衆道徳の名の下に特に厳しくされやすい。高齢化社会になり,官能さを持つ若い肉体にジェラシーを持つ老齢男女が増えればますますその傾向は高まるだろう。しかし,SEXは人を殺さない。むしろ生命を誕生させる行為である。人類繁栄のために,今年もさらなる退廃主義の拡大を目指して頑張りたいと思う。

退廃淑女は何人とやるかでは無く誰とやるか
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ビッチを判断する呪文

何人と経験したことがあるのかを聞く方法がある。ある計算をして相手の経験人数を足してもらうと
その数字がわかるという数学マジックなのだが,そもそも経験人数をカウントしている女子で無いと意味は無い。

日本の自信のない男子達はできれば経験人数3人以下がいいななど少しでも経験人数の少ない女性を求めたがる。
「6人以上はビッチ!」
みたいにあまり意味のない数字で一喜一憂しているようだ。

そもそも退廃主義的には経験人数というものが意味をなさない。問題なのは数では無いどういう人達と経験しているかが大事だ。
そしてたくさんの人と経験していたとしても,どんな人達と経験しているかでまったくタイプが異なることをここで整理してみたい。

1)身近な人とついついしてしまうタイプ

やはり男と女はいつも側にいればついついちょっとしたきっかけで結ばれてしまうものだ。社内恋愛も世の中には相当な数あるだろう。
しかし,そんな関係をたくさん持ってしまうとややこしくなるので要注意だ。最近では「サークルクラッシャー」という言葉が流行しているが,男子だらけのサークルなどで実は全員とHをしていたことがばれてサークルが崩壊するというような話はよく聞く。やはり身近な人達の場合にはばれても問題にならないような環境でそういう関係になるのがよいようだ。

昔は夜這いという制度があり,村中が暗黙の了解のもと(時には村長の指示で)夜にこっそり関係を持ち合うことが行われていた。秘密のようでいて実は知られているなど退廃的にはぞくぞくする関係のひとつではあるが,やはり現代では身近すぎるとリスクが大きいことは間違い無い。

2)相性良い人を探しまくるタイプ

ITの進展で大きいのはやはり出会いが簡単になったことだろう。出会い系サービスもたくさんあるが,普通にネット上で男女が出会うことは簡単だ。しかも自分と同じような価値観なのかを事前に判断できることが大きい。会ってみてがっかりするということが少ないことと,常に新しい出会いがたくさん待っているため,一人の人に固執する必要がない。気軽にたくさんのセフレ作りには最高の時代だ。女子から街中で声をかけて逆ナンパするのはさすがにまだまだ抵抗があるだろうが,ネット上では気軽に声をかけられる。賢い退廃主義淑女はネットで相性を見極めながら探し放題だ。

3)初めて会った人と一度だけ

しかし,もっとも退廃的なのはやはり,その場で会った知らない人としてしまうことだ。
女性としては普段の自分をまったく知らない,二度と会う可能性の無いような男性とその場限りということが実現できれば,実は一番恥ずかしさや社会的体裁など気にすることなく,淫らな一人の女性として本能のままに感じることができる。

このような体験をしてみたいという女性は実は結構いるのだろう。しかしやはりさすがにそういう体験を自分で進めるのはリスクも大きくなかなか踏み出せないものだ。

そこで我々退廃紳士の登場だ。彼女の秘密や危ない男性達からしっかり守ってあげ,ハプバーや秘密パーティなどそうした体験できる場などにエスコートしてあげよう。

ビッチを恐れている若手男子諸君。人数では無く,エロさの質で女子を判断できるスキルを是非身に付けよう。

退廃主義的おごりおごられ問題
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果てしないおごりおごられ宗教戦争

男女のおごるべきか,割り勘にするべきかの論争は長くネットの上で激しい戦いが繰り広げられ,もはや宗教戦争と化しており,男女の間の深い谷を象徴する問題だ。

美食を尊重し,男女の食事は前戯であると考える退廃主義としてはもちろん「おごるべき」派だ。
しかし一方で重視するのは「但しおごるべき女子に限る」だ。なのでおごってもよい女子とそうでない女子が一緒になって「当然おごるべき」と真っ赤になられても我々としては苦笑いをするしかない。

判断基準はコミュニケーションを継続したいか

食事もSEXも男女の大事なコミュニケーションである。SEXの方をより重視する人も多いかもだが,人間一生の中で食事の回数だって限られている。ましてや30後半以降の忙しい男女にとって一回の食事の時間は貴重な時間だ。そんな時間を共有するのだから相手は当然吟味するべきだ。もちろん女性として魅力的であり,ベッドの上で官能的な時間を一緒に楽しめるかどうかも大きいが,それ以外でもお互いに得られるものが無ければおごるのはやめておいた方がいい。自分でレストランを見極める眼を持っているような女子などは貴重な情報を色々教えてくれるかも知れない。素敵な人脈を持っている女子であれば仕事にも合コンにもお金には換えられない価値を提供してくれるかもしれない。何よりも一緒に食事をしていてとても楽しいならそれが一番かも知れない。長くコミュニケーションをとり続けたい。そう思う女子にはおしみなくおごるべきだ。人生において必ずその投資は帰ってくるはずだ。まあもちろん適正コストはその人のライフスタイルや価値観によるが。

ただやりたいだけならおごらない方がよい

ただSEXをしたいだけの目的であれば,なるべくおごらないでやることを考えた方がいいだろう。どうせ何回か食事して,一回でもSEXできたらもう会わないならコミュニケーションを継続したいと考えていないということだ。こんな場合は一回SEXをするための投資としてしか考えていないのでROIはなるべく小さい方がよい。そしてそんな駆け引きを楽しむような女子であれば少しでもSEXするのを引き延ばして,自分を高く売るために高いものおごられようとするのも当然だろう。あわよくばSEXしないですませようともするだろう。そもそもSEX好きじゃなくてお互い官能的にひかれあわないような女性をターゲットにする時点で退廃主義的とは正反対の行動と言える。合コンでもこうしたSEXよりもシャンパンタイプの女子集団がいるが,幹事がそうしたコミュニティに属していないかを見極めるのも重要だ。一部のキラキラ女子集団にはこうした美人が多いが要注意だ。美人と官能が違うことはこの連載で何度も指摘していることだ。そしてそうした集団にひかれて大金を払ってしまうことがおごる派の支払い総額を大きく引き上げてしまっていることも事実だ。

おごるべき女性を惹きつける力

筆者の経験で言うと初めて食事会をした後に帰りにちょっとしたプレゼントをくれるような気遣い女子達が時々いるがそれをさりげなくできる女子は素敵だ。何故か明日の朝食べてねとパンをくれた美女がいるが,もはや忘れることのできないインパクトだ。移動中のタクシー代はさっと払ってくれたりスマートな行動ができるとお互いの関係はよりスマートになる。

逆に合コンなどでずっと携帯いじったまま途中でごちそう様と帰る女子や自分の彼氏を連れてきて,さあ食べてと言ってその彼氏の分まで男子におごらせる女子など痛い眼にあったことも多々ある。そのたびに自分の幹事としての未熟さを感じたものだ。あの人の合コンにはこんな子を連れて行かないと!と思わせるレベルまで行くことが幹事の目標だろう。必ず美味しいお店でやってくれる,男子はイケメンと超楽しい人がいる。それぐらいに感じてもらえれば女子は会費1000円ね。と多少払ってもらう前提でも素敵な女子は十分集まるようになる。むしろ1000円なら自分の成長のために払ってでも参加したいという若い向上心女子達の合コンではよい方法とも言える。ただし30代以上の女子にはあまり通用しないが。

結論として退廃主義紳士にはおごることのできる財力とおごるべき女性を見極め,そして惹きつける力を身に付ける必要があると言えるだろう。

母親が娘に持つ妬みの連鎖を断ち切るために
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日テレスタジオ建設に反対する母親達

日テレが麹町に建て変えるスタジオ建設に近隣の女子学院の親達が反対していると報道がされていた。タレントが来ると子供達が舞い上がって勉強が手に付かなくなる,下品なファン達がやってくるというのが反対理由らしい。

当の生徒達は賛成も多いらしい。女子学院と言えば難関な学校であり優秀な生徒が多い。隣の芸能人がよく来るスタジオができたくらいで学力が下がるとも思えない。

ようするに頑張ってお受験を乗り越えた我が子のそばに近づけたくないものは極力排除しようという考えだろう。

子供にジェラシーする母親達

お受験ママに多いのは子供こそが自分のアイデンティそのものであることだ。しかし父親が自分が果たせなかった夢を子供にかなえて欲しいというようなロマンチックなものでは無い。母親のそれは子供の成功そのものが自分自身の成功であると同時に,自分を越えた幸せまでは与えたくないという屈折した心理だ。

戦後の日本の女性達は解放を言われながらも,欧米のウーマンリブほどの社会運動にはならず狭い社会に押し込められた状態できた。少なくとも今の母親の年齢の女性達は残念ながら社会の中で自己実現を果たすことはできず,かといって,欧米を真似た日本型核家族で幸せを感じることはできない。結果的に全てのアイデンティと恨みが子供に向かう。

受験という名のわかりやすい代理出世競争は自分を納得させやすい構造だ。一方で恋愛を楽しんだり,性的解放をされることは圧倒的なジェラシーを持って阻止したいのだ。自分ができなかった性的解放,実は心の奥底で望んでいたかも知れない官能的なSEXは,おばさんとなってしまった自分に今から起こる可能性は限りなくゼロだ。

だとした時にそれを子供が体験することは同性として許し難いものだ。それは修道女のシスターの教えにも匹敵する。

負の連鎖を断ち切れ

こうした母親に育てられた女子の向かう道はふたつだろう。ひとつは反発して自分は解放される。もうひとつは同じような母親になることだ。残念ながら日本社会は真面目な女子が多いため,後者のように自分が再び同じような母親になるという負の連鎖がおきやすい。今こそ男子達はこうしたお嬢様学校を卒業した女性達を解放し,退廃主義の世界に連れ込むことでこの負の連鎖を断ち切ろう。
母親達は絶望するだろうが,そればかりは仕方無い。ただまだ40代の母親であれば間に合うかも知れない。退廃主義紳士にいつどこで出会ってもよい準備をして朝の下着を選ぼう。自分自身が退廃主義の世界を知ることが出来る可能性はそうした心がけから生まれるものだ。

オヤジ世代のモテ競争戦略Episode5:負ける勝負はしない
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孫子の兵法

戦いの戦略理論としてもっとも有名な孫子の兵法。そのの中で特に有名な言葉は「彼を知り己を知れば 百戦して殆うからず」だろう。つまり戦う相手を知り,自分をしっかり把握すれば100回戦っても負けることは無いということだ。

オヤジ世代の恋愛はまさにこの言葉に尽きると言えるだろう。相手の女子をよく知り,自分の強み弱みをしっかり把握し,戦う戦場を選ぶことが大事ということだ。

戦術が支配するクラブのナンパ

男達の戦場のひとつとしてクラブやディスコでのナンパというものがある。確かにこうした場所に来ている女子達は出会いに対して警戒心は薄いし,なんとかなりそうな雰囲気がただよっている。最近のクラブは純粋に踊りが好きな人も多いので昔よりは健全だろうが,昔のクラブやディスコというのはまさに戦場だ。ナンパ目的の男子も多く敵も多い。いい女目指した一番槍達がいまかいまかと息巻いている。しかし,こんな戦場で勝利するのは間違い無く関羽みたいな戦いの猛者だ。ぱっとみの外見がよく,いいテンポの会話と勢いで一気に女子の懐に攻め込む達人は簡単に成果をあげられる。しかし,そうでない男子達はまごまごしているうちに声かけたくなる女子はいなくなり,売れ残りしか残っていない状態になる。でもだんだんそれでもいいからなんとか成果をあげなくてはと焦り始め,時間だけ過ぎていく。そうするとだんだんどうでもよい女子にまで声をかけはじめ。。。後はどんな結果にしろ納得いかない形になる。オヤジ達には誰しも一度や二度はそんな苦い経験をしている人も多いだろう。

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戦う前から勝負は決まっている

では何故うまくいかないのか。そもそも戦場を間違えているということだ。ナンパの場 = クラブやディスコという考えが間違っているということだろう。

孫子の兵法に「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」つまり戦で勝つよりも戦わないで勝つ方が良いということだ。クラブやディスコのような戦場でわざわざ戦わなくてもその前に勝負を決めれば良いのだ。

以前に合コンのところでも話たように事前準備はとても大事だ。幹事の女性が自分の得意とするライフスタイルの女子であればおのずと彼女の周辺もそのような女性が多い。なのでそうした自分が得意とする職業や価値観の優秀な幹事女性の友達をどれだけ作っていくかなども大事な事前準備と言える。そして自分が得意なジャンルの料理や場所,女性達が楽しめる男性陣を用意しておけばすでに始まる前から合コンの勝率は高まるのだ。

オヤジ達は己を知っている。なので自分がどこで一番輝くかを理解している。そして好奇心旺盛で向上心のある女子達がオヤジ好きなことも知っている。先生と生徒の立場になれるような状況が最初から作れれば戦う前から勝負はついているのだ。逆に言えば自分が得意で無い女性には行かないということでもある。若いからとか美人だからというだけで女性を選んでは行けない。自分が勝てる相手をしっかり見定めることができてこそ恋愛の諸葛孔明になれるのだ。

大沢樹生氏の親子認定裁判に見るDNA鑑定が変える家族像
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嫡出推定の不存在

タレントの大沢樹生氏18歳になる長男が自分の子供では無いということを争う裁判で親子関係無しという判決が出た。今回の判決はDNA鑑定結果というよりも,婚姻から200日目に出生した長男は民法772条2項で親子関係が推定されないということが判決理由の大きな要素になっている。

この772条問題で,離婚成立後300日以内の子供は新しい彼の子供だとしても,前の旦那の子供だとされてしまう問題が発生し,裁判所が父親を決めるというようなことになっている。

そして773条で未だに女性は離婚後6ヶ月の再婚が認められていない。多くの女性達がこのような100年前に決められた法律の壁にとまどっている。

父親を決める必要があった

つまりこうした法律は誰の子供か調べる方法が無かった時代はとりあえず子供の父親を決める必要があったため生まれたものと言える。昔から多くの男性と同じ時期にHをする女性達はたくさんいただろう。そんな中で妊娠した場合誰の子供かわからない。なのでとりあえず婚姻をベースに決める必要があるということだ。

そうであれば現代の低コストでDNA検査ができる時代には婚姻とは関係無く父親が誰かは特定可能になってきているわけで,十分法律を変えることができるようになっていると言えるし,法律以上に家族のあり方を変えることが可能なのではないだろうか。

父親と家族の分離

そ子供の父親が特定できる以上は,父親としての権利と責任を明確にすることは可能だ。養育費を払うだけで婚姻しなくても父親になれる選択肢を望む男性は多いだろう。もちろん一緒に子供を育てることもよし,さらに養育費をもらいながaら別の父親の子供を母親と同居しながら育てる男性も増えてもよい。父親が誰であるかということと,一緒に生活する家族は分離されていてもよい。実際米国のように離婚が多い国では,前の前の奥さんの子供と今の奥さんの子供と,前の旦那の子供が一緒の家族として生活しているなどという風景も珍しくは無い。

米国のように婚姻にこだわれば権利などの複雑さはますばかりだ。婚姻していなくても父親としての責任を果たせる人はたくさんいる。婚姻しなくても子供は育てたい女性もたくさんいる。精子バンクのように父親が誰かわからないまま育てられる子供はやはり可哀想だと思う。従来の家族像さえ最初から無ければ,新しい家族像は作れるはずだ。DNA鑑定は父親と母親を確定してくれる。結婚の覚悟はもちたくなくても,親の覚悟は持つ。そういう時代こそが少子化解消時代に必要な価値観なのだと思う。

サイバースペースに溢れる素人ストリッパー
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想像力とエロ本

前回マジックミラー号の話が好評だったので再びAVの話。かつてビデオデッキが発売された頃技術的性能で劣ったVHS陣営がベータマックス陣営に勝利した理由が,VHSはアダルトビデオをセットで販売したからだとは有名な話だ。それぐらい当時の男性達にとっては強烈な道具であった。

それまで元気いっぱいの男子にとって大事なおかずはエロ本と呼ばれる雑誌だった。昼間は中が見えない自動販売機が街角にあり,夜になり灯りがともると中のエロ本が見えるようになり買えるというものまであった。当時こっそり夜に買いに走った人も多いことだろう。ゴミ捨て場に落ちているエロ本も宝を見つけたようなものだった。それでも当時のエロ本はいけていないおばさんモデルだったり,感じなところが塗りつぶされており,もちろん動いていないので色々なことを自分の頭の中で変換し想像するしか無い。当時の男子達が女性の裸を見るということがいかに大変なことだったか。

ビデオデッキという奇跡の道具

そんな時に登場したアダルトビデオは男子達にとってまさにテクノロジーの進化がもたらした奇跡の道具だった。その後は前回のお話したように女優達はどんどん普通の人達になり,綺麗になり,やがてインターネットの登場でいつでもどこでもネットでAVは簡単に見られる時代になった。

もはや検索すれば30秒で世界中の女性のヌードを見ることができる時代になった。あれほど男子達が苦労して見たかった裸やお○○こも簡単に見られる時代になった。そのことが男子の草食化を加速させているのかも知れない。

ライブ配信

そんなAV冬の時代にも新しい動きがある。これまでの編集された動画から,ライブ映像への転換だ。それはまさにサイバースペースにおけるストリップ劇場。ネットの前で素人の普通の女性達が男性達とチャットをしながら見せたり,色々な行為をする。チャットで語りかければそれに応えてくれる美しい女神達はもはや,想像の世界では無く限りないリアルだ。

やがて技術はVRになり彼女の部屋に自分がいるような感覚はすぐに実現するだろう。テクノロジーは男子達の欲望を満たしてきたが,この先にあるのはリアルなのかイマジネーションなのか,それはSEXなのかマスターベーションなのか。その境界が限りなくあいまいな時代がまさに来ようとしている。

マジックミラー号という背徳装置
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日本のAV界の大ヒットシリーズ「マジックミラー号」

マジックミラー号と聞いても意味がわかるのは男性の一部だろう。我々世代にとってAVはやはりどこか訳あり女性達が活躍していた時代であり,たまに綺麗な女優が出てくると大変な騒ぎになってブレークするという女優というコンテンツが何よりも大事な時代だった。

しかし,AVもだんだん普通の素人がたくさん参入し,アイドルよりも可愛い女優が当たり前になってくると女優としての価値は低下し,いわゆる「企画物」と呼ばれるアイデア勝負の重要性が増してきた。

そんな企画ものの頂点に立つのがこの「マジックミラー号」シリーズだ。マジックミラー号は車にマジックミラーがついており,外から中は見えないようになっているが中から外が丸見えという構造になっている。中で行為をする男女はあたかも外から見られているような状況になり,まずそれだけでもドキドキなシチュエーションになるのだ。

お金という言い訳ツール

そんな中マジックミラー号によくある状況は友人や恋人を外に待たせておき,中で初めてあった人とHをしてしまうというようなシチュエーション,外の友人や恋人に見られているような背徳感を感じながら自らが感じてしまうというものだ。

このマジックミラー号の中でHをしてしまう状況を作るために用意されるツールのひとつが「お金」だ。最初はキスしたら1万円みたいな感じで徐々に金額があがっていき,結局最後はお金に釣られてHをしてしまうという構図が定番パターンでもある。

しかし,ここではお金はあくまで言い訳ツールでしかない。このシチュエーションに背徳感を感じながらのめり込んでいくのはお金では無く,自らが望んでいることが常に明白なのもこのシリーズの面白いところだ。

「他人に見られている」「知っている人にばれてしまうかも知れない」「初めて会った人とHをしてしまう」

このように「他人に見られている」「知っている人にばれてしまうかも知れない」「初めて会った人とHをしてしまう」というようなシチュエーションこそがもっとも背徳感を感じながらもHに溺れてしまう状況だ。そして演出だとわかっていてもそうしたシチュエーションに興奮してしまう男子がたくさんいるということを証明してしまったのがこのAVシリーズだ。もはや普通のシチュエーションでは興奮できないというあなたは立派な退廃主義者だ。よって「マジックミラー号」シリーズは退廃主義宣言公認AVとしたいと思う。

仮装好き女子がハロウィンで追い払うべき悪霊とは?
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さあハロウィンナイトだ

今日はハロウィン。仮装したパーティを楽しむ人も多いだろう。中でも女子は仮装が大好きな生き物だ。そもそも日常的にも化粧という仮装をしている。

退廃主義的に考えればやはり,女子の変身願望は日常の自分と異なる。非日常の自分(そして,それこそが本当の自分なのだが)を出して見たいという欲望を常に内在しているからだと考える。

しかし,現代社会では,家族の期待する自分,社会が期待する女性らしさ,会社や学校の中での自分の立場,友人達から期待される自分の役回りなどを知らず知らずのうちに演じている自分がいる。

ましてや日本社会では自分を主張するよりは空気を読んでKYにならないように振る舞うことが求められる。そんな中で本当の自分とは自分を演じ続けたままいつのまにかそちらが本当の自分になってしまっている女子は多い。男子のように酒飲んではめはずすことや,キャバクラ(ホストクラブ)に行くなどができる女子も少ない。自己主張を全面に出せる帰国子女の女子達を羨ましそうに見ていたりもする。

仮装は違う自分として演じることを許される瞬間

いつのまにか本当の自分を心の中の監獄に閉じ込めている女子は多い。そんな時仮装は違う自分として演じることを許される瞬間でもある。「だって仮装だから」という言い訳も大事な要素だ。

男子がいつも以上に大胆になって欲しい時,なかなか口説けない女性へのアプローチ。そんな時はまず何かひとつでも仮装できるような場所へ連れて行ってあげよう。一次会で一番真面目そうだった子がカラオケやハプバーなど着替える衣装があるお店に移動した途端に着替えに走るようなことは私も何度も目にしている。仮装によって心のスイッチを切り替えるのは大事なことなのだ。

「真面目に演じている自分」という悪霊を追い払おう

そんな仮装を堂々とできる貴重な日が今日ハロウィンだ。元々は悪霊を追い払うための行事だから,「真面目に演じている自分」というもっとも日本人女子に取り憑いている悪霊を今日こそ退治しようでは無いか。

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